【映画評】告白 (2010)
中島哲也監督が松たか子主演で淡々と描く、幼い娘を生徒に殺された女教師の復讐劇。
13歳の中学生が担任の娘を殺すというヘビーな題材だが、エンターテイメント性も持ち合わせながら、おぞましいまでに人間の暗部を浮かび上がらせた、まぎれもない傑作。
その日は一年の締めくくりとなる中学校の終業式の日。
シングルマザーの教師・森口悠子(松たか子)が受け持つ1年B組。
悠子はホームルームで、騒ぐ生徒たちを気にもとめず、静かに話し出す。
先頃事故で死んだ幼い我が娘・愛美(芦田愛菜)は、事故死ではない。このクラスの生徒によって殺されたのだと…。
『下妻物語』(2004年)や『嫌われ松子の一生』(2006年)などで知られる中島哲也監督が、湊かなえの本屋大賞を受賞した同名ベストセラー小説を映画化。
なお、原作未読での鑑賞。
過激な内容ゆえ、映倫に15歳以上でないと観られないR15+指定を受けています。
命は軽いか、重いか。もし殺人を犯しても裁かれないなら、それは“軽い”のか。
風に漂うシャボン玉に大切なものを思う心があれば、そこに軽いも重いもないと気づくはずなのに。
映画は、松たか子演じる女教師・悠子の“告白”で始まり、その冒頭のホームルーム後、次々と別の告白者に独白がリレーされ、それぞれの主観から事の真相が少しずつ判明していくという構成。
予告編などでは先生の娘を殺した生徒は誰か?と煽っているが、悠子の最初の告白で犯人はすぐに判明する。
この映画の主軸は犯人捜しではない。犯人はわかった上で、その真相が二転三転していく過程が一級のサスペンスとなっている。
そして浮き彫りになる心の闇、負の連鎖。
それぞれの主観が変わることによって事実の見え方が変わるという構成から、黒澤明監督の名作『羅生門』(1950年)を思い出したが、そんな安易な発想すら墓穴のミスリードだった。
この映画で打ち明けられる各々の“告白”は、観客の目線を切り替える主観のように見せかけて、実は嘘や願望も含んだ、体裁を取り繕った告白。観客はそれを客観的に見させられていたのだった。
全体で見れば、「こんなこと現実にはあり得ない」と思う(思いたい)が、個々の登場人物の行動はさもありなんと思わせる無理のない展開で、そこから連なる負の連鎖が恐ろしい。
キャスト陣の素晴らしい演技もその説得力に貢献する。
とりわけ松たか子が凄い。静かに語りかける口調の裏側にある揺るぎない復讐心。そしてラストカットのなんとも言えない表情が目に焼き付く。
中学生の子どもたちも、よくぞまあ、こんな役をという熱演だ。
映像詩のように日常の風景が淡々と、しかし緊張感が途切れることなく提示され、先の展開は予断を許さない。
何度も登場するミラー越しに切り取られた光景は、観客の同情を拒否し、距離を置いた目線で客観的にこの事件を見つめさせようとしているかのようだ。
直接的には悪をあげつらわない。もちろん肯定もしない。人間の心の闇を露わにし、目の前に提示し、その判断はそれぞれの観客にゆだねられる。
すべてを語らず曖昧にされた“余白”が、「いじめはいけない」とか、「人殺しはいけない」とか、そんな安易な感想を封じ込め、考える時間を与える。決して巻き戻せない時間を。
その極めつけ、観る者によって解釈が変わるラスト。
これまでポップな画調で観客を魅了してきた中島監督らしからぬ、よどんだ抑えた色調で描かれる本作で、一番派手な映像で見せるクライマックスの“それ”は現実にあったのかどうか。
意図的にどちらとも取れるよう演出されているので正解と呼べる答えはないんだろうが、あえて自分の解釈を言わせてもらえば、あれは犯人の想像の中だけの出来事で、実際には無かったと思う。
ここから先はネタバレ込みで。
《では続きをどうぞ》
クライマックスの体育館、悠子がすべてを見透かし、「元担任教師として、あなたの嘘を私が正してあげましょう」と言って修哉に語り始めた告白では、彼女は基本的に嘘を言わないよう言葉を選んでいると思う。だから「爆弾を作ったのも、スイッチを押したのも、あなたです」とは言うが、「大切な人を殺したのは」とは言わない。
修哉の母親に爆弾を渡したのは事実だろう。ただしその爆弾は、「単純な仕掛けで、解除するのは簡単」だったと明言している。
そして悠子がラストにつぶやく「なーんてね」は、修哉が自白時に窓から飛び降りようとして彼女に言った「なーんてね」への返しになっていて、死んだと思わされた母親が実は死んでいないことを指している。
自らは手を下さずに直樹に母親を殺させた悠子は、修哉に対しても当然“最後”までいくつもりだったろう。が、ファミレスで美月から修哉の話を聞いて考えが変わったんじゃなかろうか。その後の路上での嗚咽シーンがその変化を物語っている。
結果的に修哉は自分が殺した美月によって最悪の結末からは救われ、更生の道を残した。そんな皮肉も含んだ結末なんだと思うんですよ。
後味のいい映画ではないが、不快な終わり方とも違う。
ただただズシリときた。
作品データ - Film Data
- 【キャスト】松たか子/木村佳乃/岡田将生/西井幸人/藤原薫/橋本愛/荒井浩文/山口馬木也/黒田育世/芦田愛菜/鈴木惣一朗/山田キヌヲ/二宮弘子/高橋努/金井勇太/野村信次/ヘンデル龍生/吉川拳生/成島有騎/小野孝弘/三浦由衣/前田想太
- 【監督/脚本】中島哲也
- 【原作】湊かなえ『告白』
- 【製作】島谷能成/百武弘二/吉田眞一/鈴木ゆたか/諸角裕/宮路敬久/北川直樹/喜多埜裕明/大宮敏靖
- 【エグゼクティブ・プロデューサー】市川南/塚田泰浩
- 【企画】川村元気
- 【プロデューサー】石田雄治/鈴木ゆたか/窪田義弘
- 【撮影】阿藤正一/尾澤篤史
- 【VE】千葉清美
- 【照明】高倉進
- 【録音】矢野正人
- 【美術】桑島十和子
- 【装飾】西尾共未
- 【スタイリスト】申谷弘美
- 【チーフ・ヘアメイク】山﨑聡
- 【記録】長坂由起子
- 【監督補】宮野雅之
- 【キャスティング】黒沢潤二郎
- 【助監督】水元泰嗣
- 【制作担当】斉藤大和
- 【ビジュアルエフェクツスーパーバイザー】柳川瀬雅英
- 【ビジュアルエフェクツプロデューサー】土屋真治
- 【CGディレクター/CGプロデューサー】増尾隆幸
- 【編集】小池義幸
- 【音楽プロデューサー】金橋豊彦
- 【ラインプロデューサー】加藤賢治
- 【主題歌】『Last Flowers』Radiohead
- 【製作】『告白』製作委員会(東宝/博報堂DYメディアパートナーズ/フェイス・ワンダワークス/リクリ/双葉社/日本出版販売/ソニー・ミュージックエンタテインメント/Yahoo!JAPAN/TSUTAYAグループ)
- 【制作プロダクション】東宝 映像制作部/リクリ
- 【配給】東宝
- 【日本公開】2010年
- 【製作年】2010年
- 【製作国】日本
- 【上映時間】106分
- 【公式サイト】http://kokuhaku-shimasu.jp/
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いつもお世話になっております。
さて本作、原作が抜群に面白かった事もあり、小生も期待して鑑賞いたしました。
個人的に森口役には、米倉涼子か松雪泰子が適任と考えていたのですが、今は松たか子でよかったと思います。
スローモーションを多用、ミュージカルかオペラを彷彿とさせる構図で、賛否両論あると思いますが、小生は登場人物、特に生徒たちの未成熟な幻想や願望をビジュアル化したかったのかな、と好意的に捉えました。
まだ数本映画レビューが溜まっておりますので、感想は1週間ぐらい先になると思いますが、その際はTBお願いします。
投稿情報: 100SHIKI | 2010年6 月 6日 (日曜日) 10:29
いやあー、凄い映画でした。出来としては「すばらしい」とか「面白い」と褒めたいのだけど、そんな言葉を使うのもはばかられるような救いの無さ。同じ学園物でも「バトル・ロワイヤル」は、まだ絵空事と言える余裕があるけれど、これは、現実の事件の当事者達もこんなこと考えているんだろうかと思わせる怖さが半端じゃない。世の中、家族、学校、社会・・・どんな集団もバラバラで、気持ちを伝え合おうともしない、というか拒んでる現実を見ているようで、非常に気持ちの悪い(「実際の気持ち悪い」では無いのだけれど・・・)後味ですね。でも、傑作です。松たか子って、今まで一度もうまいって思ったこと無かったけれど、今回は脱帽です。「『パチン』じゃなくて『ドッカーン』」のセリフの怖さったら・・・。ところで、最後の「なんてね」は、私は、あまりに救いの無いこの映画全体が、観客に実は「冗談」と思ってもらっても構わないようよう監督が配慮したのではないかと思ったのですがいかがでしょううか(正直、要らないと思いました。)。映画の後、原作も一気読みしたのですが、ほとんど原作どおりです。同じように怖いです。
投稿情報: オサムシ | 2010年6 月 6日 (日曜日) 21:25
まず中島監督の映像センスにはいつもながら感服します。今回は人間の負の感情に純化したかのような映像に感じられました。そしてそこにのっかる松たか子。彼女は何を思いながら演じていたのか是非聞いて見たいです。
なるほど「なーんてね!」の解釈は正にしっくり来ます。既にご存知の通り、私も彼女は母親を殺させていないと思っているので。そもそも、修哉に関係の無い人を巻き込むの?と問うている彼女が、自ら関係の無い人を巻き込む爆弾を使用することはないのだと思うのです。それではただのテロになってしまいますから。
ただ、私は更正の道は残していないと思っているところがちょっとかみぃさんとは違いますね。
いずれにしても、現行の少年法では被害者悠子だけでなく、加害者側をもどん底に突き落とすことができる、そうすることが可能であることを示しているのだと思いました。
投稿情報: KLY | 2010年6 月 7日 (月曜日) 02:36
◆100SHIKIさん
こんにちは。
こんな重いテーマでありながら、エンタメ的な愉しみ方もできるバランス感覚は凄いですね。
原作未読なんですが、これは読んでみたくなりました。
◆オサムシさん
>あまりに救いの無いこの映画全体が、観客に実は「冗談」と思ってもらっても構わないようよう監督が配慮した
そういった面もあるんでしょうね。
そういう意味ではどちらかというと、最後「更正の第一歩」と急に優等生的なセリフで締められるので、それを翻して軽く受け止めてくれっていう監督のメッセージに感じました。
◆KLYさん
僕も悠子自身は「彼に更正して欲しい」とは思っていないと思うんですよね。結果的にそういう道も残されているだけで。
母親に会いに行けなかった彼にとって、殺人を悔やんだ後に、母親が生きている世界で“殺人犯”として世間に晒されながら生きていくことこそが「本当の地獄」の始まりなんだと思います。
だからわざわざ、「今ごろ警察によって彼の家で死体が発見されている」と彼に伝えたんじゃないかと。
このセリフからも、彼に母親を殺させることが復讐の最終目標ではなかったという気がするんですよね。
ただ、彼を苦しめるためには、まず殺人を悔いてもらわないと始まらないというか。
まあ正直なところ、いろいろ考える度に自分の解釈も揺らいでしまうんですが(苦笑)。
ファミレス後の悠子の嗚咽も、実はまったく逆の意味ではなかろうか、とかね。
投稿情報: かみぃ | 2010年6 月 7日 (月曜日) 10:45
こんにちは~♪
スゴイ映画でしたね~圧倒されましたよ。
あまり好きではない内容ではあるのですが、もうまた観たい-って気持ちも正直あります。スゴイ魔力だ(笑)
私もラストの「な~んてね」にはかみぃさんが書かれた意味合いが込められていると思います。
ただAの母親を助けたのは、他に大勢の人を巻き込むのを避けただけでは?って思っています。
Aがガキの考えで大勢を巻き込もうとしたのを嘲笑っていたので。
投稿情報: 由香 | 2010年6 月10日 (木曜日) 10:45
◆由香さん
こんにちは。
この映画の最後の解釈には、観る人の価値観とかモラル感が反映されるなぁって感じます。
とにかく徹底して犯人を陥れたいと思う人や、復讐鬼と化した悠子にはもはや人の心は一切残っていないと感じた人は、“それ”はあった思う人が多いようだし。
そういう意味では由香さんはかなり優しいですね。(笑)
僕は第三者をも駒として利用する悠子に、巻き添えを食らう人たちに配慮するような考えはなかったと思っていて、単に彼女の「復讐の美学」として、自分の手を直接汚すようなことはしなかったんじゃないかなぁって思うんですよね。
投稿情報: かみぃ | 2010年6 月10日 (木曜日) 12:42
はじめましてこんにちは。
興味深く読ませて頂きました。
でも、「な~んてね」の解釈が自分と違っていたので
かみぃさんの意見を聞きたくカキコしました。
●最後の台詞「な~んてね」の解釈について●
悠子の「な~んてね」が修哉の「な~んてね」に対応しているとするならば、
あのくだりは全てがウソということになる。
つまり「な~てね」も含めてウソ、という解釈を私はしました。(修哉はなんてねの後もウソをつき続けているから)
物語は徹底して第三者の視点で描かれています。
それこそ、TVのニュースを見ているように。
ニュースを見て、コメンテイターが常識的な考えを基に犯人の心理を分析します。
まるで本人と会ってきたかのように。
そして視聴者も、そのあまりにも都合の良い解釈に納得し、同情したり怒りを覚えたりします。
実際は本当かどうかも怪しいのに。
このことは、この映画にも言えるのではないかと思うのです。
夫に一度止められはしたが、その後実際に止めたかどうかまでは描写していない。
爆弾も、「大切な人を殺したのは」とは言っていないだけで、実際の現場は修哉のイメージだけしか描写されていない。
つまり、観客の想像だけで
修哉の動機を知る→路上の咆哮→少年Aに同情・共感・自己反省→実際に殺していない(混入していない)
と都合の良いように悠子の心情を導いているわけです。
あの路上の咆哮は、憎むべき対象が守るべき子供だったので“悔しかった”のではないでしょうか。子供とは思わず、ひとりの人間としてAに復讐を誓ったのに、親の愛情に飢えてひねくれてしまったの可愛そうな子共。“結局は子共のやったこと”だからこその苛立ち。そしてその鬱憤を晴らす為に“あなたの元教師として、すべてはあなたを更生する為にやった”とウソをついたのではと推察します。
悠子は、大人と子供の本来持つべき関係性や命のついての感覚が欠如してしまった人ですから(いわゆるシリアルキラー的な思考パターン)。
少しでも人間性を取り戻しているのならば、絶望に打ちひしがれている(守るべき対象である)子供に対して、これから更生と言っているのにもかかわらず、髪を掴みあげるなどという行為をわざわざ(演出)するでしょうか?
捨て台詞的な演出とも考えられなくはないですが、そうだとしたら、Bを追い込んで母を殺させたことに対して、Bの更生にも言及するはずだと思いますので。
私は最後の「な~んてね」は、非常にメタ的な台詞だと考えています。
これに違和感を覚えないようにするためにわざと徹底して第三者視点で構成したのだとも。
悠子の「な~んてね」は観客に対しての言葉で、「殺してないと思ったでしょ? な~んてね」だと思うのです。
悠子のキャラを最後の最後まで一貫して描き続けたのではと思います。
と言う意見ですら私個人の都合の良い妄想に過ぎませんので、この作品のテーマはこう思います。
『安易に憶測や邪推をし、自分にとって面白くする為の勝手で都合の良いテンプレート的な考え方をしていると美月のように藪をつついて蛇を出したり、Bの母のような狂気に走ってしまう』
ひと言でいえば、『リアリティの喪失』。
昨今の、事件・事故をセンセーショナルに取り扱うマスコミと、弥次馬根性な視聴者に対する社会に警鐘をならしているのではないでしょうか。
だから、多くの人はこの映画を見て胸クソが悪くなってしまうのでは……? 無意識下で、自身の弥次馬根性を見透かされてると思われて。
そしてその理由を「人の暗部を描いて何が面白いんだ?」的な批判にすり替えてしまう。映画が主張しているのはその人自身の暗部なのに。
この作品の正しい見方は、「描写されていない事実は、例えそれをほのめかす描写があったとしても、憶測でものを言わない」かなと。
私はこの『告白』は、一般的な作品とは真逆の演出をしている、斬新な作品だと感じます。
個人的にはアカデミー外国語映画賞を差し上げたいくらいです(笑)
これがこの作品に監督が込めたテーマ・演出なのかなと思いますが、かみぃさんは私のこの意見をどう思われますでしょうか?
と言う意見ですら私個人の都合の良い……(以下ループ)
長文駄文失礼致しました。
投稿情報: 鈴原マキナ | 2010年6 月12日 (土曜日) 05:04
◆鈴原マキナさん
コメントありがとうございます。
正直なところ、難しい文章でどこまで読み取れているのか心配なのですが(汗)、頑張って答えてみます。
なるほど「安易に憶測や邪推をしちゃだめだ」っていうテーマは、確かにそうかもしれませんね。
ただ、こちらのマキナさんの文章から推測するに、マキナさん自身、いろんな視点がごっちゃになってる気がします。
演出技法、映画の中の人物像、はたまたこの映画を批判する人への批判、などなど。
この映画の中で描かれる事象が一面的で、それが本当にあったかどうかすらわからないのは、監督(および原作者)が意図してのことでしょう。
そんな第三者視点で描く演出技法をテーマに結びつけるなら、マキナさんがおっしゃるような解釈もあると思います。
ですが、映画の中の登場人物たちの心情を理解しようとすることは、「弥次馬根性な視聴者」とはまったく別物ですよ。映画を理解するには必要な取り組みです。
ただこの映画は、観た人なりの解釈ができるように、あえて曖昧な描写になっている。
それは、観客それぞれが自分の考えで理解すればいいんだ、というつもりで演出されているからだと思います。少なくとも「勝手に想像するな」では、映画が成り立ちません。
「描写されていない事実は、例えそれをほのめかす描写があったとしても、憶測でものを言わない」じゃなくて、どんどん憶測をふくらませられるようにしてあるんです。これは報道番組や新聞のニュース記事ではなく劇映画なんですから。
そんな映画ですから、その解釈に各人の価値観や人間観が反映されるのは当然です。
マキナさん自身も、「いわゆるシリアルキラー的な思考パターン」や「これから更生と言っているのにもかかわらず、髪を掴みあげるなどという行為をわざわざ(演出)するでしょうか?」とかって、まさに「自分にとって面白くする為の勝手で都合の良いテンプレート的な考え方」ですよね。
僕の意見では、悠子先生を単なるシリアルキラーの型にはめて観ようとは思いませんし、愛の鞭として髪を掴みあげる行為も無いとは言えない。
御自身で自分の考えが矛盾してると思っているから、ループしちゃうんですよ。
矛盾じゃなくて、演出技法の理解と、映画の中で起こっていることの理解を切り分けて考えればいいんです。
一般論として客観的な演出は、登場人物たちをちょっと距離を置いて見せるためです。それこそ安易に同情して感情移入したり、短絡的にこいつらひどい奴、と思わないために。
第三者視点の冷静な目で、映画の中の出来事や人物の心情を想像することは、演出意図に反さないと思いますよ。
「な~んてね」にしても、あくまで悠子のセリフの続きとして解釈するなら本文で触れたような会話が成り立っていると理解しましたよ、僕は、ってことです。
ラストシーンが暗転したあとの、松たか子さんの声で代弁された“監督の言葉”として解釈するなら、この映画全体にかかってくる、一貫した第三者視点の締めくくりとしての、一歩引いた(客観的に見てもらうための)セリフだと思います。
あと、「あんまり難しく考えるなよ。これはエンターテイメント映画なんだから」っていう、監督の照れもあるのかな、と。
投稿情報: かみぃ | 2010年6 月12日 (土曜日) 23:08
なるほど・・・
かみぃさんのラストの解釈、わたし微塵もそんな風に思ってませんでした(笑)
「な〜んてね」は、悠子先生の復讐劇のダメ押しくらいに思ってて。。。
「これから本当の更正がはじまるのです」と言って悠子先生は涙を流す・・・なーんてね!というイジワルな受け止め方をしてました。
こちらの解釈の方がしっくりくるし、希望がもてますね。
投稿情報: kenko | 2010年6 月19日 (土曜日) 17:21
◆kenkoさん
こんにちは。
僕はそう感じたんですよね。
観た人なりの落としどころがある映画だと思いますし、この映画の最後に希望が必要かという疑問もあるので、「復讐劇のダメ押し」も充分納得できる解釈だと思いますよ。
投稿情報: かみぃ | 2010年6 月20日 (日曜日) 16:47